それは、はじまり

少し厚めに切ったトーストの上に、カリカリに焼いた卵焼きを乗せる。
新鮮なサラダは、先日、近所の家のペンキ塗りをネロが手伝ったときに
お礼で貰ったものだ。それから、紅茶。キリエの好きな、アールグレイの香り。
でもネロは、この香りがどうやらあまり好きじゃないみたい。
だから、彼にはカフェオレを用意して。
キリエはつけていたエプロンを外し、テーブルに朝食を運んだ。
壁にかかった時計を見ると、うん、とひとつ頷いてから。

ネロは夜更かしが好きだ。
彼の部屋の明かりは、遅くまで消えることがない。
雑誌を読んだり音楽を聞いたり。
だからいつも、朝は、キリエの方が早いのだ。
男の子って、そんなものよね。と、キリエは微笑んで。
朝食を用意して、ネロを部屋まで起こしにいく。
一日のスタートは、毎朝いつも、そんな感じで始まる。



とん、とん、とん。と、足音がする。
まどろみながら、ベッドの中で過ごす時間は、とても幸せだ。
自分を起こしにくるキリエの足音も、また。
そっと自室の扉が開けられ、優しく馴染んだ気配を、すぐ傍に感じる。
ネロはとっくに目を覚ましていたが、目は瞑ったままだ。
自分を起こそうとする彼女の手が、肩に触れる。
ネロは不意をつくように、その手を掴んで。
目を開ければ、驚いたようなキリエの顔が見える。ネロはくすくす笑った。

「もう!起きてたのね」

それから少し怒ったような顔をして。でも、キリエは手をひっこめること
はせずに。自分のものとはまるで違う、細くて、すべらかな、手。
ネロは枕に頬を埋めたまま、ベッドの横に立つ彼女を見上げた。
自分を見つめる眼差しは、どこまでもやわらかい。

「キリエ、」

目を閉じて、繋いだ手に、ほんの少しだけ力を込める。

「ネロ?」

不思議そうな、声。

「・・眠いんだ」

それは、ただの口実。
ほんとは、目なんてとっくに覚めているけど。
でも、もう少しだけこうしていたくて。
せっかくの朝食を冷ましてしまうのは、申し訳なく思うけど、でも。
ゆるやかに握れば、きちんと握り返してくれるあたたかな体温が、心地いい。

「キリエ」
「うん?」
「キリエ・・」
「ネロ?」
「・・ただ、呼んだだけだ」

はじめから、けっして多くを与えられた人生ではなかったけれど。
誰かの両手いっぱいにあるものを、ネロは空っぽの手で、羨んでいた
幼い過去を思い出す。でも、今。なにも無かった自分には、キリエがいて。
物心ついた頃から家族はいなくても、家族というものを知ることは
できた。そして、それ以上に大切だと思える人も。

「寝ぼけているのね?」

そうかも、しれない。
だからこんな、甘ったるい気分になったのかもしれない。眠気のせいにして、
ネロは、目を開けた。

金色にぼやけた、朝の日差し。
トーストと卵の、こうばしい香り。
そして、手を伸ばせば君がいる。

それは朝の風景。
幸せな一日のはじまり。





ブラウザバックでお戻り下さい。